覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『白鳥評論』=正宗白鳥・著」、『毎日新聞』2015年09月06日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『白鳥評論』=正宗白鳥・著
毎日新聞 2015年09月06日 東京朝刊


 (講談社文芸文庫・1620円)

 ◇簡潔な表現で人生にみちびく

 日本の文芸批評の先覚、正宗白鳥(まさむねはくちょう)(一八七九−一九六二)の主要作三五編を、坪内祐三が選んだ。どこを開いても、感興のある一冊だ。

 広津柳浪(ひろつりゅうろう)『黒(くろ)蜥蜴(とかげ)』、小杉天外『陣笠(じんがさ)』、加能(かのう)作次郎『世の中へ』、小山内薫『西山物語』など昔の作品がつぎつぎ登場。あらすじも書かず、これはいい、あれはどうもと記す。知らない読者はまごつくが、手がかりのないものにも感じとれることはある。それが本来の読書の姿だろう。ひとことだけでもいい。そのまわりに何があるかなど考えずに読んでみたい。「島崎藤村の文学」の一節。

 「藤村氏は、簡素な生活に、味(あじわ)いの深そうな意味を見つけて、それを尊いように取り扱っていた。」

 この「深そうな意味」は「深い意味」とは、少しばかりちがう。「尊いように」は「尊いものとして」などではない。こまかいところにも批評の意識がみてとれる。人の心には区別を必要とするものがある。この一節にとどまり、あれこれを思って何時間かを過ごす人もいるはず。こういう文章を文章というのだろう。

 次は「岩野泡鳴(ほうめい)」より。泡鳴は、樺太でのカニの缶詰製造業も失敗。気が多く、思慮が浅い人。<「詰まらん坊」(近松秋江の泡鳴評)とも思われる所以(ゆえん)で、含蓄を志している藤村氏と非常に異っている>。この「含蓄」に「志している」を添えるのもおもしろい。

 このあと正宗白鳥は、「漱石作中の会話が巧みであるとともに、作られたわざとらしさと、もどかしさを感じさせる」のとは異なり、泡鳴の会話には妙味があると記す。泡鳴の作品は「芸術として欠点だらけであるにしろ、人を動かす力は、明治文学中の何人にも劣らない」。ぼくが思い出すのは、泡鳴五部作のひとつ『憑(つ)き物(もの)』。好きでもない女といっしょに、札幌の豊平川の鉄橋から落ちて死のうとするが、川床の根雪に当たって失敗。櫛(くし)を落とした女は、安物の櫛なのに、男に「探して来い!」と叫ぶ。心中を図った人とも思えない会話だ。これが泡鳴の真骨頂。

 さて、いま引いた正宗白鳥の文には作者名、作品の外形が示されるだけで、小説の技術的な批評はほとんどない。なのに、これだけの一節で藤村、漱石、秋江(泡鳴を「詰まらん坊」といいきる表現もみごと)、泡鳴の姿、生き方が眼前に躍り出る。簡潔な表現が、人生の風景へとみちびくのだ。

 主人公の名前もあらすじも書く必要はない。目の前の人に話すように書く。それが正宗白鳥の批評の基本姿勢だ。今日の批評家は長い文章を書く。知識、情報、解釈。でも何も書かれていないことが多い。ほんとうの批評は少しのことばで十分だ。その一点でも「白鳥評論」にまさるものはないように思う。

 ふと思い出したというふうにつづるときも、いいことばがある。たとえば、さきほどの「島崎藤村の文学」のなかで。

 徳田秋声『足〓(あしあと)』、藤村『春』など、大衆性はなくても、明治文学史に光を放つ長編の多くは新聞に連載されたものだ。「当時の新聞は、自分で意識しないうちに」文化に貢献したと、正宗白鳥は振り返る。

 「大上段に大刀を振り翳(かざ)している時には、案外、内容のある何をもし遂げていないので、黙っていて、自分でも気の付かない間に、意義ある実蹟を残していることが、世間によく有り得るのである」。いい見方だ。読む人のそれぞれの場所に、かかわる。ひびく。そういう文章を正宗白鳥は書いた。
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『白鳥評論』=正宗白鳥・著」、『毎日新聞』2015年09月06日(日)付。

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