覚え書:「ザ・コラム:我がこととして 政治は決して遠くない 秋山訓子」、『朝日新聞』2016年01月07日(木)付。

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ザ・コラム:我がこととして 政治は決して遠くない 秋山訓子
2016年1月7日

 あけましておめでとうございます。初お目見えなので、自分のことから書き始めたいと思います。

 私が朝日新聞に入社したのは1992年。同期の3割ほどは女性でした。しかし、98年に政治部に異動すると、60人くらいの部員のうち、女性は2人だけ(今は6人)。私以前に政治部にいた女性は合わせても10人に満たない。

 着任の部会で目の前を埋め尽くした灰色のスーツ軍団に、20代の私はただただ圧倒された。頭の中が真っ白になり、あいさつを促されて「私はグレーの世界に来てしまいました」と口走った。

 それからの日々はグレーどころではない。真っ黒だった。一番こたえたのは、政治記者と呼ばれる人たちが何を話しているのか、さっぱり理解できなかったことだ。私の使う言葉が通じないところに来てしまったと感じた。

 政治取材は伝統のもとに積み上がり、政治記事は細かいルールに満ちていた。「政府首脳」「党首脳」「政府関係者」……。誰をさすか、実は決まっている。まだ激しい派閥抗争もあり、「うちのムラが」などと、代理人のようにふるまう記者もいた。

 「政治記事は、対象の政治家へのラブレター」という人もいた。政治家の懐深く入り込むためそういった側面もあるのかもしれないが、戸惑うばかり。政治が、政治家と官僚、ごく限られたメディアなどでつくる、特殊な閉じた世界に思えた。

         ◇

 その夏のある日、参院選の企画で、先輩がインタビュー取材をするという。私はメモ係を命じられた。相手は人材派遣会社ザ・アールの創業者で、女性経営者の草分け的存在の奥谷禮子さん。政治業界ではない人に、政治について聞く企画だった。

 先輩がトイレに立った時、奥谷さんは私に「政治部はどう?」と話しかけてくれた。「男性ばっかりで大変です」と答えた私に奥谷さんは言った。

 「女性は政治から疎外されている。だからおかしなところが見えるの」

 大きな衝撃だった。私の息苦しさは、他の記者も感じていたかもしれない。けれども、女性という少数派だからより大きかったのかも、そう思った。以降私は、違和感を大事にしようと思えるようになった。

 翌年、政治部でNPOの取材班を作ることになった。NPO法が制定されたばかりでNPOって何?という頃。少しポジティブになっていた私は参加に手を挙げた。

         ◇

 ここで私は新たな政治の形に出会った。国際協力、環境、教育、さまざまなNPOが生まれていた。私は、ちょっと大げさに言うと、政治の最前線はここにあると思った。そして、永田町を取材してきてよかったとも。中央の政治と、目の前の社会課題の解決への取り組みが結び付いて見えた。

 そのころ、静岡で「活(い)き生きネットワーク」の理事長をする杉本彰子さんと知り合った。地域で高齢者の介護や病児保育などの活動をして30年になる。

 杉本さんは20代の時、故・末次一郎氏のもとで働いていた。末次氏は北方領土問題や沖縄返還に取り組んだ歴代首相のブレーンだが、実は日本のNPOの礎を築いた人物でもある。政治と民の力を結ぶ先駆けだったのだ。杉本さんの事務所には末次氏の「活き生き」という書が飾ってある。

 活き生きで目を引かれたのは、他では就職を断られたような人たちが多く働いていたことだ。不登校だった人、精神障害を抱える人、高齢者……。

 「痛みや悲しみを知る人ほど、優しい。そういう人がもっと弱い人に頼られて、必要とされる喜びを感じ強くなるんです」

 杉本さんは言う。

 日々の生活で、誰かの役にたち、喜びを感じて変わっていく。そういうことの積み重ねが、やがて政治を、社会を変えていくかもしれない。

 今、NPOの数は5万を超える。2度の政権交代があり、昨夏の安保法制審議では多くの人がデモに参加し、我がこととして政治を考え、自分の言葉で語った。自分の頭で手で政治を考え、変えようとする。そういう人が、確実に増えていると思う。

 政治は、決して遠い彼方(かなた)の話ではない。

 (編集委員
    ーー「ザ・コラム:我がこととして 政治は決して遠くない 秋山訓子」、『朝日新聞』2016年01月07日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12147304.html


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