他の文化が滑稽に映る様子と同じように、もし自身の文化を異邦人の視点から捉えたらどうか?
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次に多文化主義を語るうえでの、ヨーロッパの宗教的・イデオロギー的遺産に含まれる貴重な側面があります。私にとって守り抜く甲斐のあるヨーロッパ的価値とは何か? 近代哲学の初期段階においてはすでに……デカルト『方法序説』を読めば、彼が思想の追究を始めたきっかけが書いてあります。他の文化が滑稽に映る様子と同じように、もし自身の文化を異邦人の視点から捉えたらどうか? それで、どれほど滑稽かが認識できる。自らの文化がいかに偶然的かを実感するわけです。生まれついた文化が自然だと思わせる生来のルーツから、離脱することができるのです。間違っているかもしれませんが、私はこの体験こそがヨーロッパがもたらしたものだと考えています。そのような意味で、ヨーロッパは真に普遍性を導入した。ヨーロッパの遺産において肯定できる側面です。
−−スラヴォイ・ジジェク(岡崎玲子、インタビュー・訳)『人権と国家 −−世界の本質をめぐる考察』集英社新書、2006年、9−10頁。
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ヨーロッパから何を学ぶのかといえば、やはりこの「普遍性」ということではないでしょうか。
勿論、そうはいっても、野蛮⇔文明に軸をおいてそこから世界をヒエラルキーとさせたヨーロッパの思想性、力を伴った文化帝国主義の問題は承知しておりますし、その負荷は厳しく検討・精査されてしかるべきです。
しかしそうした負の側面だけで終わらせることなく、何かを為した場合、必ずそれについての「真摯な反省」という議論が出てくる柔軟さにはいつも瞠目してしまいます。
そういうものがいろいろありますが、その一つが、「文化がいかに偶然的か」という観点。
もっとも……
「そんなこたァ知らねえよ、ヨーロッパ世界がNO.1」と仰ってはばからない欧州人はゴマンと存在しますし……
「草臥れた東洋よりも、ヨーロッパの方がエレガントなんだよね」と無知丸出しの西洋崇拝の東洋の方々もゴマンと存在しますし……
……そんなことはもとより承知です。
しかしながら、たえず自分自身を相対化させていく、そして……しかもイデオロギーの奴隷として発想するのではなく、自分自身の「頭」と「心」をつかって……その意義を学び、「そういうものに“すぎない”」と導き出す柔軟さはやっぱり学ぶ必要があるんです。
私自身は神学研究者として『ザ』ヨーロッパですよ。
そのことへの自覚はあります。
しかし、どちらが偉いかという議論を超えて、西は東から学び、東は西から学ぶことによって、どうものごとを見ていくのか……という視点はやっぱり必要なんです。
※そもそも西⇔東という二律背反の発想そのものがオリエンタリズム(⇔オクシデンタリズム)のマジックなんだけど、それはひとまず措く。
もちろん、『ザ』ヨーロッパに関わっておりますが、肩入れはしておりますよ。しかし、それは崇拝ではなく、その慧眼から何を学び、この生きている社会に反射させていくのかという意味なので、単純に「西洋乙」クラスタか……などとは片づけないでくださいまし。
伝統的に、東洋の社会は、本来、仮象にしか過ぎないものを後生大事に「実体」として扱う精神風土に加え、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の思考麻痺した全体優先の発想が濃厚です。
だからこそそうなるわけなんですが、別に西洋が素晴らしいなどとすっとぼけた吹聴をしようとは思いませんが、だからこそ「我」から「相対性」を導く「学び」は、「ものごとをどう見るか」という意味では身に付けておくべき流儀だと思うのですけどネ。
何かを語ると「このヨーロッパかぶれ」とかよく言われますが、「かぶれ」てレッテル張りする人間ほど「かぶれ」ている御仁はいないよな、と思いつつ、脱線しましたね。
もどります。
ジジェク(Slavoj Žižek,1949)はデカルト(René Descartes,1596−1650)の『方法序説』での“疑う”という事に注目して「もし自身の文化を異邦人の視点から捉えたらどうか? それで、どれほど滑稽かが認識できる。自らの文化がいかに偶然的かを実感するわけです。生まれついた文化が自然だと思わせる生来のルーツから、離脱することができるのです」と指摘しております。
もちろん、この離脱=完全な客観化というお花畑ではないのはいうまでもありませんが、「自分てどうよ」っていう問いかけが常にもっておかないと、「滑稽」であることを知らない“裸の王様”になっちゃうよ、ってことですねw