過去は大家族で、現在存在する「核家族」はずっと昔から変わってこなかったのか?

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(6)皆が結婚するべきだという規範
 中世におけるロマンティック・ラブは、騎士と貴婦人という限られた階層だけに許された存在だった。しかし近代におけるロマンティックラブを特徴づけるのは、ロマンティックラブが全てのひとに起こると考えられ始めたことである。
 例えば、日本の中世ではどうだったのか。服藤早苗は『家族と結婚の歴史』において、中世には自分の意志とは関係なく、身分や階層によって結婚しない男女が多くいたことを指摘している(服藤 1998)。むしろ結婚して妻の呼称を得る女性達は、特権層だった。
(中略)
 このように大量に独身者が存在するという事情は、江戸時代に入ってもそれほど変化がなかった。また、ヨーロッパにおいても同様だった。僧籍に入ったり、学問をしながら生涯独身をつらぬく人間は、ヨーロッパにも存在したのである。日本では、貧農の二、三男に結婚が許されなかったことが日本の「封建制」の特徴のように考えられてきたが、耕地が限られている場合には特別のことではない。相続によって耕地の分割を防ぐ意味があったのだ。さらに商家においても、商家に仕えながら独身のまま生涯を終える人間は、多数存在した。
    −−千田由紀『日本型近代家族』勁草書房、2012年、22−23頁。

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「過去の家族って、今の家族と同じ? それとも、違うと思いますか?」

授業で久しぶりに学生さんたちに聞いてみた。
現在の家族の単位の大多数が「核家族」というイメージだから、戦前の地方の大家族を思い浮かべるような「大家族」を思い浮かべ、現在の家族とは「違う」という認識が多かった。

確かに、一昔前に「大家族」は多かったかも知れないが、現在の家族と違うそれは、近代以前の社会において「ずーっとそうだった」かと問い直してみるとどうやらそうではない。


最初の質問は、「世帯」に関するイメージの問いでしたが、では、たとえば、「太古の昔から男と女はつがって子どもを産み、社会生活を男が担い……」という内実についてはどうだろうか。

時代劇では、身分を問わず「夫婦」が描かれる。もちろん、そのなかには、共働きもあれば、専業主婦も現れる。その意味では、世帯の内実に関しては、だいたい変わっていないのではないか……という認識が多かった。

工業化される以前の前近代の社会は大家族かといえば、実際はそうではない。そして、現在のように、多くの男と女がつがって「一世帯」をみんなが構成するかといえば、そうではない。

大家族は存在しなくはないが、血縁だけでなく住み込み奉公人というケースがあったり、夫婦が「世帯」を構成するかといえば、実際は、単身で亡くなっていくなっていくケースが多いという。

では、誰が一対のカップルとその子どもを基準とする「家族」をプロモートするのか。それは国民国家というエージェントだ。国民国家が「国民」をつくりだすと同時に「家族」が創造されていく。そして「世帯単位」で把握された「家族」が国家を支える兵士や労働者の生産・供給元として管理されていくのである。

さて、最初に言ったとおり、家族についての変化の面と連続の面について、現代に生きる私たちは、例えば、「大家族から小家族へ」、「世帯を構成するのは人間の本性」のような認識を「あたりまえ」のものとして抱いている。

しかしその「あたりまえ」のものと呼ばれるものは、「家族」についてのイメージでも分かるとおり、少し点検してみると、極めて「誤ったもの」であることが浮かび上がってくる。

こうした、本当は「誤っている」認識像を「あたりまえ」だと錯覚して生きていることのほうが実際には多いのではないかと思う。

哲学は驚きから始まると喝破したのは古代ギリシアプラトンである。
自明のことだから検討するに値しないとすれば、日常生活には驚きや喜びは存在しない。どれだけ意識的に、その薄皮を派がしていくことが出来るのか。

そこに「哲学する」ことが存在する。

……まあ、そんな話を少々した訳ですけれども。

「自明のことを疑え」です。

しかし、このゆがみを意図的に流布するのはいったい誰なんだろうかといえば、先に言ったとおり、それは国民国家であり、政府である。

そのことは忘れてはいけないでしょうね。



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 これらの事情が一変したのが、明治以降の近代社会である。生涯にひとりは運命の相手があらわれ、とにかく全員が結婚するべきであると考えられるようになったのである。いわゆる「適齢期」をすぎると「どうして結婚しないの」とたずねられ、結婚しない言い訳を必要とするようになる社会というのは、歴史を振り返ってみれば珍しい社会だということができる。これを「再生産の平等化」(落合 1994)と考えるか、「再生産の義務化」と考えるかは、立場によって異なるだろう。

(7)ロマンティックラブと異性愛規範
 近代社会にはいってから「一対の男女が恋に落ちて結婚する」というストーリーが崇高なものとされるようになった一方で、それ以外の関係はあまり重要視されなくなった。わたしたちは、男女の一対の関係を当たり前のものと自明しがちであるが、歴史を振り返ってみれば、けっしてそうではない。
    −−千田由紀『日本型近代家族』勁草書房、2012年、24頁。

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