私は……自国内では、潜在的にあるいは実際に暴力的になりかねない多数派の一員です。
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私はバラモンで、バラモンとして生まれ、すなわち上層カーストとして生まれ、先に述べた通り、潜在的に暴力的な−−すべてのヒンドゥー教徒が暴力的なのではありませんが−−それでも自国内では、潜在的にあるいは実際に暴力的になりかねない多数派の一員です。私は非常に普遍主義的で反カースト主義的な両親に育てられました。現在は合州国の非常に権威ある大学で教えています。私が「私の」あるいは「私のもの」と言うときには、非常に慎重であるべきですし、また確かに慎重であると思います。そういう言葉が思い浮かぶとき、私は即座に何が問題であるかを考えるのです。愛するものを自分のものだと言えないこと、これが権力ブロックに同一化されるときに起こることなのです。松本さん、愛がなくなってしまったのではありませんが、ただ私は、知的なプロジェクトを愛の上に築くことはできないだけです。合州国や英国では、私のような人たちが少数派として、多数派が自分たちを理解してくれないと不平を言いたくなる誘惑は、非常に強いものです。そういった誘惑に「否」と言ったために私は苦しみ、私を支持してくれる人もありません。あなたは私に大変重要な質問をしてくださいました。同じ答えの二つの側に立ちつつ、これからも友達であり続けましょう。
−−G・C・スピヴァク(中井亜佐子訳)「他のアジア」、鵜飼哲監修『スピヴァク、日本で語る』岩波書店、2009年、153−154頁。
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