日記:「今読んでいるんです」とはなかなか言えず「今読み返しているのですが」……


(twのまとめですが……)

先週の続きで、今日も文学について少々お話をしました。『カラマーゾフの兄弟』における「人類」の議論から、社会実践としてのスピヴァクの可能性へ示唆を飛ばし、世界文学を読むケーススタディとしてゲーテを参照しました。

我ながらアクロバティック。

ゲーテは文学論で、特殊個別性と普遍性は相互に照らし合うことで双方が輝くとみます。田舎文学と呼ばれた独文学を世界の舞台へ引き上げると同時に、その土着性をも尊重する形で光を当て直しました。極めてドイツ臭のする作品であると同時に、誰が読んでも心を打つ。そこにゲーテの偉大さがあるのかも知れません。

薄っぺらい世界市民を気取ることはひとつの錯覚だし根無し草にほかならない。そして、その対極としての「日本の文化は世界一ィィィィ」式の認識ほど愚かなものはないから、そういう極端を退けるなかで、誰とも違う自分を認識し、同時にその自分が人間の一員であることが両方の眼でみてとれることができるようになることが肝要ではないかと思います。

なので、今日は、そのゲーテの議論をうけるかたちで、NHKのニュース内の特集の"ヘイトスピーチ" 日韓友好の街で何が・・・を紹介しました。


前期はデューイで接続したのですが、ゲーテの方がよりスムーズだったような感じでした。

前期もヘイトスピーチの問題を紹介しましたが、後期では反応が違うのに驚きました。前期は、その「事件」を知らない学生が多かったのですが、後期は知っている学生が多くいました。「正直、日本人の私も怖いですが、どのように向き合えばいいのでしょうか」という学生の熱意が印象的でした。

現実に、これが特効薬というのはないし、それぞれの人がそのNOという立場を自分のいる現場で自分のできることを諦めずに取り組んでいくことで穴を穿っていくしかないのだと思う。

以前、文学の議論で、週刊誌の偏向報道が問題になったのですが、そのやりとりの中で、一人の女学生が、バイト先の店長が週刊誌の愛読者だと思いだし、授業が済んでバイトに行ったとき、店長に、日本の週刊誌の体質の話をして、「もう、読まないよ」といってくれたと後日報告がありました。

勿論、法令の整備のような他律的なアプローチの充足は必要不可欠だとは思いますが、自身の認識を改めるなかで、自分のできることなんてないと問題の大きさに振り回されるのではなくて、実は自分の関わる世界のなかでもその人にしかできないことって一杯あるような気がするからそれを大切にしたい。

むしろ、それを実現させるためには、これだけをやれば済むのだ、というアプローチこそ問題なのかもしれない。たしかにそれを実現させるために、先の「これ」をやるのも大切だとしても、それだけで済ませてしまうのではなくて、自分自身が関わるなかでの自分の実践というのも大事なような気がしてね。

さて……。
私自身はやや古典的な教養主義の立場といってもよいけど、読書で教養を身につけることで「人間性は涵養されますよ」などと言い切るほどの自信はない(その効用を全否定はしないけど)。おそらく読書で教養とは、知のカタログにレ印をくわえるのではなく、自己の臆見をたゆみなく破壊することなんだろう

なので、たとえばつぎのような読書論・教養論は面白そうだけど違う気がする

→ 「世界のエリートは、なぜ大量の本を読みこなせるのか? ハーバード、エール、東京大学EMPほか、世界のトップ機関で研鑽を積んだ男が教える『いま、本当に使えるリベラルアーツ』の身につけ方」。

http://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E8%9B%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E8%A1%93-%E7%94%B0%E6%9D%91-%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4864102767

“本当に使える”と形容された時点で、リベラルアーツとは似て非なるものなんじゃないのかなあ。“使える”とか“役に立つ”ように読むことこそ狭隘な知へ導いていくのじゃないのかねえ。それに抗うのがリベラルアーツのような気がするが、そんな悠長なことは行ってられないって話なんでしょうかねえ。

私自身、割と本を読む方だし、学生さんにも「古典を読め」と言っていますが、それは「人生で勝利するため=エリートなるため、に読む」のかといえばそうじゃないと思う。形式としてのエリートになる人なんて殆どいない。じゃあ読む効用なんてないの?っていわれるとそうじゃないですよね。

高度経済成長期に所謂「文学全集」が売れたような受容もどうかとは思うのだけど、偉くなるためにこれを読むのじゃなくて、農家であったり、商店主であったり、サラリーマンであったり、小役人であったり、ひとはそれぞれなんだけど、そのそれぞれの中で読んでいくことの意義をみていきたいんだよねえ。

世の中全体が勝ち/負けの二元論に矮小化されるから、本を読むこと自体も「勝つ」ために収斂されていく。しかし現実にはスーパーエリートになっていくのなんて1%だけなのだから、中世の大学・哲学の伝統は「羊飼いよ、汝は哲学をもつや否や」なんだから、勝つために読むのは、ホント違いますよ。

鶴見俊輔さん流にいえば「みみずにも哲学がある」つう話。そのひとがそのひとであることを否定してジャンプするために読むわけじゃない。結果としての功利は否定しないけれども、それが目的と化した時、エピステーメーはテクネーへと転落してしまう。前者が大切なのは常に批判の眼を提示することだから

これも何度も言っているけれども、例えば文学を読むことを、戦前の文学青年の如く奉ろうとは思わない。しかし、必然される読書経験……例えば、資格試験で読まなければならない教材を読むことを、「1冊、読書したw」っていうのかねえ。

イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(河出文庫)の中で、古典とは「今読んでいるんです」とはなかなか言えず「今読み返しているのですが」っていう本がそれという。読まなければ本は多い。しかし、何度も読み返す本は存在する。それをどれだけ多く持ち合わせ、何度も読むことができるかだ。

今日も若い子と話していて、そうなんだと思ったんだけど、最近、いろいろと読み始めたとのことだったのですが、これまた若い子から「色々読んでいるみたいだけど、村上春樹も読んでないんですかー」って言われて読み始んだとのこと。

すると「面白い」ではすまされないなあ、と実感したとのことです。

村上春樹さんの作品には、賛否両論あるし、好き嫌いがものすごく分かれる。しかし、その話が象徴しているのは、一遍読んで「はい終わり、これは面白い、面白くない」ですべてが終わってしまうというのは違いますよね。ショーペンハウアーの「読書について」をひくまでもなく。

「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる」から「自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない」というパラドクスを引き受けるしかないですねw














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