覚え書:「『ハンナ・アーレント』 矢野久美子著 宇野重規(政治学者・東京大教授)・評」、『読売新聞』2014年05月04日(日)付。


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宇野重規政治学者・東京大教授)
ハンナ・アーレント』 矢野久美子著

誠実な政治哲学者の生涯


 ハンナ・アーレントというと、全体主義やら革命を論じた、ちょっと怖そうな政治哲学者というイメージがあるかもしれない。ところが、日本でも話題になった映画「ハンナ・アーレント」がよく描いていたように、彼女は亡命先のニューヨークでの友人たちとの交わりを大切にした、繊細で心優しき人であった。

 ドイツでのナチス体験、過酷な逃亡生活、ようやくたどり着いたアメリカでの生活の苦難とマッカーシズムの不寛容。しかしながら、彼女はこれらの経験を個人、あるいは民族の災難ではなく、二〇世紀における人間の置かれた条件として考察し続けた。このことが彼女をまさに二〇世紀を代表する思想家にしたのだが、それを支えたのは彼女を囲む家族や友との親密な関係であった。

 映画はとてもよくできていたが、かなりの情報量が圧縮されていたため、消化不良になった人もいるだろう。そんな人にお薦めなのが本書である。アーレントの思想を、彼女の生涯にそって説明していくこの本は、これまで彼女の著作に親しんできた読者にとっても、得るところが大きい一冊だ。

 ポイントとなるのは『全体主義の起原』と『イェルサレムアイヒマン』の二冊である。前者が、ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、ヨーロッパ哲学の精髄を学びながら、そのヨーロッパ世界の自己崩壊を体験したアーレントの前半生の総決算の書であるとすれば、後者はナチの戦犯の裁判傍聴記であり、同胞であるはずのユダヤ人から激しい批判を受けることになった問題の書である。

 多くのユダヤ人をガス室に送り込んだのは、悪魔ではなく、上からの命令を粛々と実行した小心な人物に過ぎない。問題なのは、思考を停止し、自分の頭で判断する勇気を持たないことではないのか。巨悪の断罪をのぞんだ人々に、「あなただって、それに加担する可能性がある」と問いかけたアーレントの勇気と知的誠実さが、強く印象に残る。

 ◇やの・くみこ=1964年生まれ。フェリス女学院大教授(思想史専攻)。共訳書に『アーレント政治思想集成』。

 中公新書 820円
    −−「『ハンナ・アーレント』 矢野久美子著 宇野重規政治学者・東京大教授)・評」、『読売新聞』2014年05月04日(日)付。

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