日記:レーヴィットの「日本哲学」批判

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レーヴィットの「日本哲学」批判
その歪みを最初に指摘したのは、ナチスの台頭とともにそれまで教鞭をとっていたマールブルク大学を追われ、日本へ亡命して、五年間東北帝国大学で哲学とドイツ文学を講じたあと、日独が枢軸同盟を結ぶことになり、米国へと渡ったドイツ系ユダヤ人、カール・レーヴィットである。その彼に、米国への亡命前に雑誌「思想」(岩波書店)のために草した長大な論文「ヨーロッパのニヒリズム」(一九四〇年)がある。戦後、おなじ題でこれを含めた論文集が筑摩書房によって編まれたときに、それに付した「日本の読者に与える跋」は、戦後六十余年、わたしたちがここで日本における哲学のあり方を再考するにあたって、どうしても味読しておかなければならない文章である。この文章はヨーロッパ文化論としても優れたものであるが、日本の言論界に対してここで厳しく指摘されていることがらは、今日のわたしたちにとってもたいへんに耳に痛いものである。
日本人はロシアにおよそ百年遅れて欧化の道を踏みだした。と同時に、ヨーロッパの郵政を拉ぐことを目標としてその道を歩みつづけた。つまりヨーロッパ的な技術や科学を用いてヨーロッパに逆らおうとするのだから、「日本人の西洋に対する関係はすべて自己分裂的になり、アンビヴァレントになる。西洋の文明を歎賞し同時に嫌悪するのである」。レーヴィットがこのようなメッセージを日本の読者に送るきっかけの一つにこういうことがある。東北帝国大学在任中に頼まれて添削をした論文の多くが、まるで「ヨーロッパからすでに何もかも学んでしまって、今度はそれを改善し、もうそれを凌駕していると思って」おり、そういうヨーロッパ文化の彫刻という掛け声とともに結ばれているのを、苦虫を噛みつぶすような思いで目撃したことである。ここにあるとんでもない思い違い、とんでもない皮相さーー西洋人による西欧の自己批判をそのまま鵜呑みにし、それに乗ってみずからの立場の伝統的西欧への優越を感じるという愚ーーに、レーヴィットはヨーロッパの<哲学>の何たるかをあらためて確認する必要を感じたようだ。

前世紀の後半において日本がヨーロッパと接触しはじめ、ヨーロッパの「進歩」を歎賞すべき努力と熱っぽい速さをもって受け取った時は、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し全世界を征服していたとはいえ、内実はすでに衰頽していたのである。しかし、十九世紀のロシヤ人とは違って当時の日本人は、ヨーロッパ人と批判的に対決しなかった。そして、ボドレールからニーチェに至るヨーロッパの最上の人物をさすがに自己およびヨーロッパを看破して戦慄を感じたものを、日本人ははじめ無邪気に、無批判に、残らず受け取ってしまった。日本人がいよいよヨーロッパ人を知った時はすでに遅かった。その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものたる自己批判には、日本は少しも注意を払わなかった。[……]日本の西洋化が始まった時期は、ヨーロッパがヨーロッパ自身を解決しようのない一箇の問題と感じたのと、不幸にも同じ時期であった。外国人にそれがどうして解決できようか。(『ヨーロッパのニヒリズム』柴田治三郎訳)
    −−鷲田清一『哲学の使い方』岩波新書、2014年、59ー61頁。

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