日記:「よき市民」として生きることを「よき国民」として生きることと錯覚してはいけない

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以前、昨今のグローバル大学批判をしたところ、創価大学(グローバル認定)の出身者から「何が悪いんですか、数値で可視化された基準で“評価”されたんですよ」ってえらい剣幕で反批判されたことがある。飼い主と犬じゃありませんから国家に褒められてうれしいかと聞いたけど、どこまでも平行線だった

例えば、創価学会インターナショナルは「良き市民であれ」と説く。しかしながら、その「良き市民」であることの「眼差し」が逆さまになってしまった場合、これは喜劇どころか悲劇に過ぎない。大学が「評価」されること自体を全否定はしない。しかし、それをも相対化する眼差しがどこかにないとやばい。

確かに出身者としては嬉しいのだろう。しかし国家が評価してくれて嬉しいとは、国家が認定する良き市民として高得点をはじき出しただけで、鎖の輝きを誇る奴隷の如き錯覚でもある。喜ぶのが悪いとは言わないが、そこに無邪気になってしまうのは愚かという他ない。それが良き市民の全体ではないからだ。

国家の奴隷とは異なる良き市民とは何か。いくつかあろうが、それは国家が誤った道に進もうとすることを批判する視座ではなかろうか。特に宗教は、国家を超える人間の内面の営みである。ちゃぶだい返し宜しくやんちゃして葬式に白い靴下でいく必要はないが、籠絡を退ける知性霊性の柔軟さは必要だろう。

この世の重力からの解放が宗教の魂である。そしてその輝きは、絶えざる国家の管理化・走狗化との軋轢の歴史であり、軍門下るのが教団政治の選択であった。日本宗教史は特にこの傾向が顕著だ。鎮護国家の仏教、国家神道を引くまでもなく、内村事件の光明あるキリスト教も管理下におかれる。

あらゆる宗教はその当該地域において「お騒がせ」として出発する。進展の中で市民権を得ることは必ず課題なる。しかしその地域に認められることは「お騒がせ」を辞め、地域平穏の憲兵と化すことではないのだ。地域社会の模範として良き市民として生きることは同時に虚偽を撃つことでもなければならない

我等は各其教義を発揮し、皇運を翼賛し国民道徳の振興を図らんことを期す。
近代日本宗教史を振り返れば、最大の汚辱が、三教会同(1912)だ。キリスト教はこの決議で「公認教」となる(信教の自由ははるか以前に認められているが)。しかしもがれたものは大きい。勿論内村鑑三は批判している。

体制迎合の終点は、国家による「日本基督教団」の成立がその頂点となる。野生の信徒たちは、良き市民として対峙するが同胞から売られることになる。これはキリスト教に限られない。全ての教団の共有する瑕疵であろう。僕は拷問に絶えられる自身が全くないが、国家の介入だけは敬遠したいとは思う。

しかしこれが歴史のパラドクスか。日本というものによって最大限侮辱された対峙し続けた内村鑑三の流れから奇貨の如くキリストの幕屋が誕生する。治安維持法違反でその命を奪われた牧口常三郎の伝統から、集団的自衛権を容認し、国家管理を誇る創価大学生が出てくる。世も奇々怪々だとは僕だけでない。

「よき市民」として生きることを「よき国民」として生きることと錯覚してはいけないのだろう。そのちょっとした錯覚が、気がつけば、権力の手先になることにシノギをけずる、本来とは全く違ったキメラへと変貌してしまうのだ。国家からの顕彰なんぼのもんじゃ、この意識失念したくない。




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