日記:宮田光雄 ローマ書一三章と南原繁『国家と宗教』(岩波書店、1942年)

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 同じ年の秋(引用者注……大石兵太郎『君主の神的権威』が出版された一九四二年)、南原繁『国家と宗教』が出版された。ローマ書一三章に関しては、ここ「から、直ちに国家権力の宗教的認証を与えたものとなし、これによって、たとえば後世の《君権神授説》の理論的構成を与えたものと解するがごときは、いちじるしく不当と考えられる」という。南原も、こうしたパウロの説教は、すべてを神の意志から出たものと信じ、所与の秩序を尊重すべきことを説き、これに忍従すべきことを勧めるところの、「彼らの純粋に宗教的愛の心情から出る受動的態度」にほかならず、その意味で「いずれの時代にも容認せられるべき信仰の生活態度」である、と記している。
 しかし、これによって「国家それ自体のキリスト教的意義の神的価値を立て、これに対する絶対信仰を説く神政政治の原理を立てたわけではない」ことを明言している。内村鑑三の弟子としてふさわしい聖書理解といえよう。
 むしろ、南原によれば、人類史の発展においてキリスト教の出現は、古代文明にたいし、したがってまた、政治的文化との関係において、「根本的転回」をあたえたものとして理解される。
 「国家的共同体はもはやそれ自体最高の価値を有するものでなく、最高の規範は政治的国家生活を超えて存する。この意味においてキリスト教にあっては、国家またはその主権者をそれ自体キリスト教の意味における神の国または神と同義において神化する根拠と余地は存しないと言わなければならぬ」。
 こうした精神史的認識は、当時唱道されていた「日本精神への復帰」ないし「全体的国家 共同体思想」などへの透徹とした時代批判と結びついていた(22)。
 ちなみに、この書物の最終章で、南原は、バルトにも言及している。バルトの『今日の神学的実存』(一九三三年)について、「神学の立場からではあるが、時代の勢力に抗して書かれた精神的抗議の最後の表題」として強い共鳴と評価をあたえている。それは、バルト神学のもつ政治的射程を正確に理解した、当時の日本においては、きわめて稀な政治学者の発言である。
 そうした視点は、この本における南原の鋭いナチズム批判、さらには、巻末における田辺元の国家哲学批判に通底するものだった。田辺の哲学が絶対無の弁証法によって「国家こそ真の宗教を成立せしめる根拠、否、それ自ら『地上の神の国』となる」とするものだという南原の批判は、すでに天皇ファシズムにおける国家の神格化の論理にも向けられていたことは明らかである(23)。
(22)南原繁『国家と宗教』(初版、一九四二年。『著作集』第一巻、岩波書店、所収)八五−八六頁。福田正俊の戦後の回想によれば、「昭和一七年に出版された『国家と宗教』の著者、南原繁氏とたまたま同席する機会がありました。そのとき、この本は暗黒時代に黙示録的な形で国家批判をしたものと考えてよいかとおたずねした時、そうだという答がかえってきたことを記憶しております」(『我らを生かして来たものと今日の問題』六頁)。この書物が狭い専門研究者のみでなく広く一般読者の共感を呼び起こした点について、たとえば南原、前掲書「解説」(福田歓一)四〇五頁、参照)。
(23)南原繁、前掲書、二三九頁、二六六頁。
    −−宮田光雄「権威と服従 天皇ファシズムとローマ書一三章」、『宮田光雄集 聖書の信仰』IV巻、岩波書店、1996年、318−319頁。

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