覚え書:「千の証言:軍国エリート少年、キリスト教の道究める 手のぬくもり、しみた 賀川豊彦に見いだされ=大木英夫さん」『毎日新聞』2014年09月23日(火)付。

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千の証言:軍国エリート少年、キリスト教の道究める 手のぬくもり、しみた 賀川豊彦に見いだされ
毎日新聞 2014年09月23日 東京朝刊

(写真キャプション)キリスト教に出会った日々を振り返る大木さん=東京都北区の自宅で、山田大輔撮影

 東京陸軍幼年学校の正門前に軍服姿の少年が立つ。「入学直後の14歳の私です。もちろん大将になるつもりでした」。価値観がひっくり返った戦後、葛藤を抱えてさまよう若き軍国エリートはキリスト教と出会い、「一度死んで生まれ変わる転向」を遂げた。【山田大輔

 大木英夫さん(85)が東京都内の自宅で、「人生の原点」ともいえる写真を前に、葛藤の道のりを語った。戦後、東京神学大学長や聖学院理事長を歴任し、数多くの牧師を育てたキリスト教研究の第一人者だ。
 福島県喜多方市の地主の家に生まれた。10歳のころ兄が上海で戦死し、靖国神社合祀(ごうし)の祭事に母と参列して軍人を志した。名門の会津中学で軍学校志願者の特別クラスに入り、1943年、100倍の難関をくぐって陸軍幼年学校に進んだ。
 自らを「カデット(士官候補生)」と呼ぶ強烈なエリート集団の一日は、朝の宮城遥拝(ようはい)(皇居方向への敬礼)と軍人勅諭暗唱で始まる。中国に遼東半島を返還させられた独仏露三国干渉(1895年)の屈辱を忘れぬようにと、半島をかたどる赤いV字を軍服の袖口に縫い込んでいた。
 選良意識に会津の義を重んじる精神も加わり、帰省の列車の中も直立不動を通す軍人精神の徹底ぶりだった。
 入学時、日本の勢力圏はほぼ最大で、「まさか負けるとは思っていなかった」。しかし戦況は徐々に悪化。44年夏に学校ごと八王子へ疎開した。45年3月の東京大空襲では、遠く下町で巨大な火炎が上がるのを見て戦局の異変を感じた。
 8月15日の敗戦を受け入れるのは難しかった。玉砕せよ、という教えを幼い頭に刻みつけてきた教師に「軍服を脱ぎ新しい生活を」と言われた。16歳の最上級生で谷底へ突き落とされ、「なぜ生き延びるのか」と苦しんだ。
 帰郷していた晩秋、キリスト教社会運動家賀川豊彦(1888〜1960年)の伝道集会をふらりとのぞいた。戦前から貧民救済に奔走し、戦後ノーベル文学賞候補となった賀川はこの時期、各地で集会を開いていた。もう誰も振り向かない幼年学校の軍服を着ていたのが目に留まり、前に出るよう言われた。全てを察したかのように彼は混乱する自分の頭に手をのせ、祈りを唱えた。「暗い帰り道、不思議な温かい気持ちに包まれた」と振り返る。
 翌年、賀川に身元保証人を頼み東京文理科大(のちの筑波大)に進学。家族を養うため郷里で教員になろうと考えつつ哲学書を読みあさり、教会に出入りした。幼年学校の仲間たちには、信仰を批判された。
 「ふらふらするな。全身をささげよ」。ある日、教会で師事していた神学者から一喝された。「兵隊学校出なので、一喝されるとぐずぐず言わず従う」と冗談めかして回顧するが、この時、古い自分が死に、新しく生き直す「回心」にたどり着き、初めて落ち着きどころを得たという。
 今年8月15日、自宅を訪ねた記者に大木さんは言った。「この日が来るたびに胸中は穏やかでなくなる。和魂洋才で進んできた大和魂はあの日壊滅した。それに代わる新しい魂は戦後社会にない」。近年の東アジア外交を念頭に「無条件降伏を『終戦』と言い逃れ、首相も含めた『戦争を知らない子供たち』が世界のひんしゅくを買っている」と批判した。
 未熟な少年を特別扱いした幼年学校は「誇り高く、かつ悲劇的な思い出」と語る。「軍国少年キリスト教の何にひかれたのか」。改めて問う記者に笑みをたたえて言った。「いい質問だが、答えるには時間がかかるよ」

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 ■ことば
 ◇陸軍幼年学校
 幼少時から「将校の卵」を育てる全寮制の教育機関。欧州の制度を模範に設置され、改廃を経て敗戦時に大阪や熊本など6校があった。13〜14歳で入学して3年間学び、士官学校へ進学した。特に陸軍の教育機関が集中する戸山ケ原(今の新宿区)にあった東京陸軍幼年学校は重要校で、敗戦で自決した阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相=広島幼年学校卒=も校長を務めた。
    −−「千の証言:軍国エリート少年、キリスト教の道究める 手のぬくもり、しみた 賀川豊彦に見いだされ=大木英夫さん」『毎日新聞』2014年09月23日(火)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140923ddm041040190000c.html


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