葬式についての雑感

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葬式についての雑感ですが、ブログにまとめて書こうかと思いましたが、気力喪失にて、忘れない内にメモ程度に少しtwに流しておきます。

日曜日、妻の祖母が104歳(数え)でなくなり、月曜お通夜、火曜日葬儀となりました。宗派は浄土真宗本願寺派。実父の葬儀をだしてから、割と葬儀に出ると細かいチェック(なんじゃそりゃ)をするようになったのですが、本願寺派では死者は穢れた忌諱対象ではないから「お清めの塩」は使わないとか。

確かに、死者が忌諱の対象でないからという意義はよく分かる。しかし、日本仏教の歴史を振り返ると……それが権力による一方的なものであったとしても……寺請制度の人別張のことを勘案すると、「生」と「死」を管理してきた訳だから、少しだけ空虚に響いた。真宗だけの問題は勿論ありません。

葬式仏教の問題は私が指摘するまでもない話です。また穢れのような発想があるから、佛教者が「弔い」の役割を引き受けたという点を積極的に評価することもわかる。前者に対して鬼の頸〜ってやるのも違うし、後者にしても、それは私度僧みたいな話やないけという話でもあって、難しい。

確かに葬式仏教化することで、「信仰」の形骸化は進んだ。その結果、信仰としての仏教ではなく、習俗としての仏教となってしまったことは否定できない。葬式を出す方も、とりあえず坊さん呼んで……みたいな手順をはずさずに「滞りなく」遂行すればそれでよしという風潮がある。

では、形式化した信仰の在り方は100%否定されて、近代日本のキリスト教に代表されるような、自覚的決断としての「信仰」だけが本物なのかと断じることには少しだけ違和感がある。勿論、葬式仏教の問題がスルーされてよいことでもないし、自覚的信仰も「継承」においては形骸化は不可避だし。

もともとは対峙・決断・受容というスタイルこそ本道だろうと思っていましたが、ここにはややもすると信仰の共同性や相互批判の問題が等閑視され、一切合切が個人へのみ還元されてしまうことになるのではないか、と。とすれば、「しゃべっている私の声を聞きたい」に傾く危険性を孕んでしまうのではと。

確かにアカデミズム的なヨーロッパのプロテスタンティズム的在り方は、宗教学の誕生そのものを歪めたように、ひとつの範にはなると思うし、宗教に限らず人間の共同性は、ややもすると、腐敗と形骸化の無限ループに陥ってしまう。それは宗教史が明らかにするところでもある。

何か特定の範型を示した上で、先験的な批判を遂行するのではなく、例えば、葬式仏教に問題があることは当事者にもわかっている問題だし(そうでない事例も多いでしょうが)、外からの高等批評によってのみ変えていくのではなく、何というか相互批判というかそうしたアプローチも必要なんじゃないかと。

まあ、伝統教団……個人的には冠婚葬祭を自前で準備できる宗教はもう制度宗教と捉えるべきと思いますが……は、これも何度も言っていますが、伝統に安住するのでなく、そしてロシア革命式な全否定主義の転換ではない、何か、を遂行して欲しいなとは思いました。まあ、そろそろ何いってんだかですが(酔

まあ、しかし、葬儀での導師の浪曲というか詩吟というか、独特の調子をもった、念仏の語りというのは、まあ、ある意味では「文化」になっているんだなーと瞠目はした次第。こういうのが、よくわらないけどありがたいというのは、坊さんにしても消費者にしてももったいないんではと思ったり。

それから、個人の信条として「これでなければ成道できない、本物はこれだけだ」っていうのは自分に返す言葉としては意義を持つと思っている。しかし、それを他者に向けることだけは慎もうと思っている。

死を利用して恐怖を餌に、何かを押さえつけようとするような言論に対してだけは警戒的でありたい。

ユニテリアンとつき合いが長かった所為かも知れませんが、個人的には、これによってしか〜できないっていう発想という信念のようなものがほとんど中和されたように思う。勿論、信仰とは他に2番、3番があっての相対的な1番ではない絶対的な1番とは承知しているけど並立できる気はする。

個人的には真宗にはあまりいいイメージがない……TLの関係者の皆様すいません……ただ、生前お会いしたのが1度しかない祖母でしたが、いわゆる「成仏」はしたのではないかとは感じた。例えば、これでは成仏できないって何なんだろうか・・・。

それからもう一つはやはり序列の問題はやっぱり何じゃらほいとは思った。岳父が長男だから喪主になる。その長女が細君だから、席次でいくと主人の私が列席の2位につく。親族で僕より親しく故人と交流した人間が他に沢山いるにも関わらず。釈尊は水平的な人間関係を説いたというが……ちょとやれやれ。








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