書評:ロバート・イーグルストン(田尻芳樹、太田晋訳)『ホロコーストとポストモダン 歴史・文学・哲学はどう応答したか』みすず書房、2013年。




ロバート・イーグルストン『ホロコーストポストモダン 歴史・文学・哲学はどう応答したか』みすず書房、読了。アドルノを引くまでもなくホロコーストは歴史・文学・哲学」を一変させた。その証言やテクストと論争、それをどのように「読む」のか。本書は、ホロコーストに対する膨大な応答を分析、その継承の意義を問う。

主として取り上げるのは、S・フリートレンダー、P・レヴィ、E・ヴィーゼル、レヴィナスデリダアガンベン等々。歴史の消費は記憶を定型化させてしまう(把握の形而上学)。それに抗うのがポストモダニズムだと著者は言う。

歴史的事件における「同一化」と「差異化」。「体験」の「追体験」がそもそも可能なのか。全体性への回収を俊敏に退けることによってこそ継承は可能になるのではないか。それが「読む」ことだ(単独的なものの普遍性を思考すること・デリダ)。

ホロコーストを単純に暴力と同定することは不可能だ。そこに多様なリアリティが存在する。そしてその出来事を考えることが思想の役割である。600頁を超える本書はその一つの素晴らしき見本であり、読み手は西洋哲学の持つ深い基盤に圧倒されるであろう。

本書を読み終えて実感するのは、歴史的事象の是非評価以前に、ホロコースト(そしてその消費の政治性の問題もあるがひとまず措くが)は思想を生業とするものにとっては避けては通れぬ課題なのである。

翻って日本思想界はどうか……。暗澹とせざるを得ない。

日本においてポストモダンとは「クールでかっこいい」ケセラセラ相対主義。真剣に向き合うことへの促しこそポストモダンであるとすれば、それは、対極の受容であるし、歪曲された「消費」に他ならない。

現代日本思想史においてもその受容は変わりない。先の戦争における事象と真っ正面から格闘した思想家はどれだけいるのだろうか。数少ないエッジを除き、皆無と言って良い。植民地支配と戦争犯罪。軽率な論評ばかりだから、シンゾーやゼロが受けるのであろう。

著者はホロコースト戦争犯罪が暴力云々以前に、そのものの否定こそ、歴史というディスクール以前の暴力だと痛烈に指摘する。否定論の批判にこそポストモダニズムの歴史・文学・哲学は必要なのである、と。

朝鮮半島と中国に対する植民地支配、そして帝国日本の戦争。情緒的な肯定論も用意された反対論もその実相から遠のいていく。時空間を隔てた我々がそれを「読む」とは何か。界の体たらくを批判する前に、課題を明確にしてくれた一書である。

(以下は蛇足)
ガダマーに対する批判が好事例のように、デリダの全方位批判のなかに当てこすりの類もあって、やや「難」と思うフシは否定できないけれども、思想家とは「構え」として、デカルトの方法懐疑ならぬ方法批判という矜持を持ち合わせなければ、「はじまらない」のではないかと思ったりです。

老境にさしつつある思想屋は「定型」の「批判」を繰り返し、若手「論客」は結果として全体へ回収される議論を垂れ流して恬淡として恥じない。その両極には、生きた人間も歴史も存在しない。思想を遂行するとは、出来合の批判を踏襲することでも、受けるディスクールを発することでもないわけなのだが。

古来から現代に至るまでの日本思想史における「批判精神」は…仏教からキリスト教の伝来、西洋思想の本格的な受容に至るまで…全て「外」から摂取・咀嚼によるといってよい。しかし、その殆どは「消費」であって摂取・受容とはほど遠い。根源的に思索を遂行していくということが今ほど問われている。








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