哲学・倫理学(近代)
- 道徳的な神の民を建設するということは、それゆえ、その実施が人間にではなく、神そのものにのみ期待されうる業である。だがそれだからと言って、人間はこの仕事に関して何もしないでよいとされはしないし、また各人はただ自らの道徳的な私事だけに専念す…
- 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺…
- このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに…
- 物のまわりをかぎまわって、物の目じるしをあつめ、物を分類してきたこれまでの哲学は、カントがあらわれたので、研究を中止してしまった。カントは人間の心そのものをしらべるように研究をひきもどして、人間の心にあらわれてくるものを吟味した。カント…
- 定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く生活することを欲することができない。 証明 この定理の証明、あるいはむしろこの事実そのものはそれ自体で明白であり、また欲望…
- 実際、我々は極普通の談話においてさえ、快適と善とを区別しているのである。香辛料やその他これに類するものを加えて味を利かせた料理を食べると、最初はなんの考えもなく快適だと言うが、しかしそれと同時に本当は善くないということを認めているのであ…
- 生即ち浄福である、と私は云つた。それ以外ではあり得ない。何となれば、生は愛であり、生の形式と力とは愛の中に存し、愛より発生するからである。−−かく云ふことによつて私は認識の最高の命題の一つを陳べたのである。但し此の命題は、眞に懸命に集中さ…
- ルソーは文明よりも未開の状態が望ましいと語ったが、われわれ人類がこれから登りつめようとしている最後の段階を見逃すならば、これはそれほど間違っていたわけではない。われわれは芸術と科学の力のおかげで高度の文化を所有している。あらゆる種類の社…
- 心情の理解は単なる理解でなくして、それは同時に行為であるが如き理解である。「愛」、詳しくは「神の愛」の概念はまさしくこのことを現わす。愛は理解と行為との合一である。我々はパスカルが神の認識における実践的なる要素を高調しているのを到る処に…
- 近代は、それが始まったときから、大胆さと不安との対位的な構造によって特徴づけられてきた。大胆さは、デカルトと彼の後継者が示した数学への熱狂によって最もよく説明され得る。大胆さは、自分自身の影、つまり恐怖を投げかける。パスカルの言葉で言え…