覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 男性の働き方見直しが先=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年11月19日(水)付。

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くらしの明日
私の社会保障
男性の働き方見直しが先
女性の活躍推進
山田昌弘 中央大教授

 女性の活躍推進が成長戦略の一つの柱になっている。日本は諸外国に比べ、政治や経済分野での進出が大変遅れている。女性の国会議員比率や管理職比率は、世界最低レベルだ。「すべての女性が輝く政策パッケージ」で示されたように「女性が活躍できるような環境を」というのは、方向的には正しい。ただ、施策として、保育所の充実や、企業での数値目標の設定、再就職支援などがあげられているが、それで十分だろうか。
 卒業生が今度結婚することになったが、仕事を続けようか迷っているという。彼女は大企業の総合職だが、忙しい時期は残業が週20時間を超え、休日出勤も求められる。結婚相手も同じ職場で、同様の状況という。子供が生まれ、育児休業保育所うが使えたとしても、夫婦でこんな働き方を続ければ家庭生活を維持できない。
 優秀で会社からも期待されている彼女でさえ、そうなのだ。日本で管理職女性が少ないのは、同じ職場に勤め続け、残業、休日出勤をいとわず、家庭を顧みずに会社の都合で働くことが、管理職になるための条件となっているからだ。それが男性に可能なのは、家で家庭を守る主婦がいるからである。
 私は今、香港に滞在中だが、そこで働く人は、男性でも管理職でも残業がほとんどなく、夫婦そろって夕方家に帰ることができる。ヨーロッパでも同じ状況だ。ヘルパーが雇えたり、保育所が充実したりしていることも一因だが、それ以上に、長時間働かなくても管理職に昇進し、活躍できる環境こそが重要なのだ。
 日本の男性の労働時間が長いことで有名だが、女性も正社員に限れば、労働時間はとても長い。女性はパートが多く、平均すると短く見えるだけなのだ。女性管理職を増やすために、女性を今の男性並みに働かせることを可能とする施策では、多くの女性は絶対ついてこない。長時間働き、家庭生活を犠牲にしてまで活躍して管理職になりたいと思う女性は少ない。男性でも、そうした考えは徐々に減っている。
 女性問題は、男性問題でもある。主婦がいる男性を前提とした働き方を見直し、男女とも長時間労働をしなくても管理職に昇進し、活躍できるような施策を進める必要がある。西ヨーロッパ諸国や香港では、男女とも労働時間が短くても、労働生産性は日本よりも高水準で、経済成長率も高い。正社員、管理職の労働時間が長い日本の経済成長率はかえって低いことに、政府や経営者も気づくべきである。
 男性の働き方の見直しがない限り、女性の活躍推進は絵に描いた餅になってしまう。
すべての女性が輝く政策パッケージ 政府が助成活躍を推進するため、来年春までに実施すべき施策を集めた政策の集合体。子育て支援、主婦の再就職支援、パートの正社員化、在宅勤務の推進、セクハラ防止策の徹底など多岐にわたる項目が並ぶ。男性の家事・子育て参画推進や意識改革も盛り込まれたが、ごく一部にとどまっている。
    −−「くらしの明日 私の社会保障論 男性の働き方見直しが先=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年11月19日(水)付。

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すべての女性が輝く政策パッケージ(pdf)
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/brilliant_women/pdf/20141010package.pdf


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書評:石井光太『浮浪児1945− 戦争が生んだ子供たち』新潮社、2014年。

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石井光太『浮浪児1945− 戦争が生んだ子供たち』新潮社、読了。起点の東京大空襲から平成までーー。先の戦争で家族を失い浮浪児となった子供たち。その実像を、記録資料やすでに高齢者となったかつての浮浪児百人以上の聞き取りから迫っていく力作 

終戦から約七十年、日本の研究者やメディアは膨大な視点から戦争を取り上げてきたはずなのに、戦後間もない頃に闇市やパンパンとともに敗戦の象徴とされていた浮浪児に関する実態だけが、歴史から抹殺されたかのように空白のままだ」から本書は貴重なルポルタージュだ。

戦災孤児は約12万人、うち浮浪児は推定3万5千人(『朝日年鑑』1948)。上野駅の通路を住処にゴミをあさり闇市で盗んで食いついだ。警察の「刈り込み」による施設収容は、保護とは程遠い強制労働。幾重もの疎外の対象となった浮浪児こそ戦争最大の被害者といってよい。

45年年末までは、上野の浮浪児は戦災孤児中心で靴磨きや新聞売りが多数を占めたが、以後「ワル」が増加する。メディアの上野界隈に対する治安危惧の報道が、地方の不良少年たちを上野に吸い寄せたのだ。かくして“上野に行くも地獄、施設に行くも地獄”

46年、上野でパンパンが急増するが、RAA(特殊慰安施設協会)の廃止がその理由の1つという。RAAとは旧内務省進駐軍のために作った慰安所のこと。エレノア・ルーズベルトの意向と性病率の高さからGHQは解散を要求。失職は上野へ誘うことになった。

「新日本女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む!」

浮浪児と同じくパンパンも蔑まれたが、両者共に日本のご都合主義の「棄民」政策が作り出したもの。弱者は決して自己責任などではない。

極度の飢えと混乱。幼い子供がたった一人で生き抜いていくことは想像を絶する過酷さを伴う。本書は美化するでも蔑むでもなく淡々と描いていく。目の前で命を失う子供、あるいは自殺していく子供。誰もが浮浪児やパンパンを捨て駒としてあつかっていく。

浮浪児を取り巻く環境の変化は、46年に設立された孤児院「愛児の家」の登場だ。上野で見つけた浮浪児たちを連れ帰り、衣食住を提供し、就学や就労の世話をした。けんかやトラブルはつきないが、誰もが「ママさん」への信頼を今なお隠せない。

「僕自身が僕のことをわからない」−−。
圧巻は、浮浪児たちの「六十余年の後」を追うくだり。バブルで大成功したあげくその崩壊を一人で引き受けた者、高度経済成長の陰と日向で苦闘した者。しかし、施設育ちは話せても、浮浪児だったことは話せない者が多い。

経済発展の連動でしばしば行われるのが町の「浄化作戦」。ひとはそのことで、ステージアップを夢想する。しかし社会構造が生み出した「浮浪児」を排除することが「浄化」なのだろうか。棄民で経済発展を錯覚する眼差しそのものを疑うほかない。

上野の地下道は、ペンキの塗り直しを重ねるが70年前のそのままだという。寝泊まりする人間は今もたえない。あの戦争は終わっていない、むしろその「余塵」と、みずから終わったのだと「ごまかそう」とする中で生きているのではないか、そう考えさせられた。





 
関連記事
[書評]『浮浪児1945』 - 野上 暁|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト



http://www.shinchosha.co.jp/book/305455/


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浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち
石井 光太
新潮社
売り上げランキング: 3,334

日記:「未来はよくなる」し「未来をよくしていこう」と思っていたけど……1995年という問題。

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こないだ若い衆と呑んだとき話題になったのが、村上春樹さんが、“「孤絶」超え、理想主義へ」”(*1)を語ったこと。思い出すと、春樹さんではないけど、高校3年の時に、ベルリンの壁が崩壊したボクにも「未来はよくなる」というか「よくしていこう」と思った。

生まれたら、がっちりした冷戦構造。この漆喰は、おれが死ぬまでには崩壊しねえわな、つうのが僕だけではない同時代人の共通認識だったのではないかと思う。

しかし、まさに「あれよあれよ」という間にさ、「時代が動いた」。

おれが小学生の時はレコードですよ。しかも家具のような(春樹さんもエッセイでいくつか書いていたけど)。それがCDになっていく。

科学技術の日進月保とワンセットだけど、未来を展望していたと思う。楽天的といえば楽天的ですし、ヘーゲル的といえばヘーゲル的ですけどね。それでも、

変わるはずのなかった「冷戦構造」が動いたのは、僕らの常識を覆し、より未来を展望するようになったと思う。その背後でバブルとその崩壊が同時進行ですけど、次代はよくなっていくと思っていた。

もちろん、楽天的な技術革新への信頼は否定しないけれども、世の中が止まったのはいつなのかと誰何すれば、1995年なのかと思う。阪神大震災オウム事件の年だ。それから時間が動かなくなったという感がある。その時間の止まった5年間が現在も「続く」という認識でしょうか。

1995年から9.11に至る現代に、何も変わらない「現在」が形成されたというのがぼくの時代認識。

個々のテクノロジーのアップデートは続けれども、革新的な転変のないまま、ケータイ、パソコンが「終わらない日常」を繰り返すという構造です。その中で、未来を憧憬する「理想」が潰えたという感じです。

フランシス・フクヤマ自身が「歴史の終焉」を撤回したような現在なのだけど、そしてその楽天的見通しを僕自身も共有していたのが、10代のオレだったと思うけれども、それでも、自己責任で全てを個人に還元させる狭了さはなかったと思う。

3.11を持ち出すまでもないけど、テクノロジーが人間を「よく」することはない。しかし、95年からの足かけ20年というのは、テクノロジーの目に見える変化もなく、未来を展望することができず、絶えず社会からの転落をおそれ疑心暗鬼にだけリソースを注ぐようになったのが今かもしれない。

はっきりいって、ここまで足をひっぱりあうような社会へ誘導されるとは、ベルリンの壁が崩壊した高校3年生の時には思ってもみなかった。その展望が進歩史観の「挫折」と総括するのはたやすい。しかし、未来を仰ぎ見、現在の瑕疵を訂正していこうとする志が捨て去られたことは息苦しい。

デタッチメントからアタッチメントへ−−。

そしてそれは特定の共同体の利益を排他的に宣揚する「絆」とは同義ではない創造的なものへしていくことが求められているとは思うからこそ、サルトル的な「大文字」の対峙ではなく、カミュ的な「小文字」のアクションでアクセスするしかねえべかな、などと思ったり

これもよく言われる話だけど、高等学校の歴史教育で近現代のあたりが「時間切れ」でスルーされるのよろしく、過去百年とはいわないまでも、過去10年、20年の歩みを忘却してしまうのも問題ありだよなあ、と。ベルリンの壁が崩壊して四半世紀たって身を振り返り思った次第でございます。

『平成史』なんて書籍も出始めているけど、そろそろ90年代前半と90年代後半の断絶と連続そして今を確認しておかないとまずい気がしている。

なんていうか、現在の世界を一足に変革してやろうとは思わない、というか歴史を振り返ればそんなのは無理な訳だけど、「どーせ無駄」ってこれも一足に飛ぶの嫌でしてね、だからこそ、不断に「現在の瑕疵を訂正」していこうと思う訳さ。

1990年代の出来事が「なかったこと」にされることによって、お花畑的な「今」が接続されている。時代のアナロジーはしたくはないけど、大正リベラルデモクラシーが戦前昭和へ跳躍する契機に似たものを感じる。


(*1) 覚え書:「村上春樹さん:単独インタビュー 『孤絶』超え、理想主義へ」、『毎日新聞』2014年11月03日(月)付。 - Essais d’herméneutique


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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 異議唱えぬ日本の若者=山田昌弘」、『毎日新聞]2014年10月22日(水)付。

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くらしの明日
私の社会保障
異議唱えぬ日本の若者
香港の民主化運動、対照的な熱気
山田正宏 中央大教授

 現在、大学から在外研究の機会を与えられ、香港に滞在中である。日本でも報道されているように、当地では普通選挙を求める民主化運動が活発化し、9月末より学生を中心とした若者が政府庁舎前の道路で座り込みを続けている。昼間に何度か現場に足を運んでみたが、一時帰宅か、学校や仕事に行っている人が多いのか、思いのほか落ち着いていた。暴力的な雰囲気はなく、活動家の話を聞く人や、黙々と普通選挙の願いを紙に書いている若者たちをみると、静かな熱気を感じることができた。
 原稿執筆時点では、動向は予断を許さないが、中国政府が譲歩して民主化要求を認めることはまずないと言われている。しかし、香港の将来を担う若者たちが、自分たちの社会を自由で民主的なものに変えていきたいという意思を言葉や行動ではっきり示したことは、香港の将来にとって大きな意味を持つことだと感じている。
 ひるがえって、日本の若者はどうだろう。以前、ある学生新聞の記者が、高騰する大学授業料に関する意見を私に求めてきた。「私が学生の頃は、学生自治会が大学で授業料値上げに反対のデモやストライキをやっていた」と昔話をしたら、「そんなことをして、就職にひびかないんですか?」と言われたことがある。
 また、地域社会に貢献したいと政治家を目指す若者と話した時、「つきあっている彼女から、一流大学を出て一流企業に就職できるのに、なぜそれを蹴って不安定な政治家を目指すのかと言われ、困っている」と聞いたことがある。
 社会に異議申し立てすることを「自分にとって不利益になる恐れがあるから」と、控えるのである。今年発表された内閣府の若者の意識に関する国際比較調査でも、「社会現象が変えられるかもしれない」と回答した日本の若者は、調査7カ国中最低の30%だった。
 人と違う意見を言うのを避ける傾向も若者の間に広がっている。「権威に疑問を持ち、社会を変えるエネルギーを持つ存在」という若者の定義は、もう日本では当てはまらない。
 「自分が多少不利益を被っても、社会を良い方向に変えるために行動したい」という若い人が多い社会と、「どうせ何をしても社会は良くならない」と権威に従って自分の利益だけを考える若い人が多い社会とでは、どちらが活性化するかは明らかである。もう香港は、一人当り国内総生産(GNP)で日本を上回っている。これからどんどん引き離していくにちがいない。従順でおとなしい若者が増えたと、日本の大人たちは喜んでいてよいのだろうか?
内閣府の若者意識調査 内閣府の2014年版「子ども・若者白書」では、日本、米、仏など7カ国の13〜29歳の男女を対象に、人生観や社会参加についての意識を調査。「社会の問題に関与したい」などの項目で、日本の若者の意識は諸外国の若者と比べて押す大敵に低い結果だった。
    −−「くらしの明日 私の社会保障論 異議唱えぬ日本の若者=山田昌弘」、『毎日新聞]2014年10月22日(水)付。

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覚え書:「耕論:スルーする力って? 『もっと自由になる』方策」、『朝日新聞』2014年10月07日(火)付。


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スルーする力って? 「もっと自由になる」方策
聞き手・尾沢智史 聞き手・藤生京子 聞き手・萩一晶
2014年10月7日

 マキタスポーツ 70年生まれ。音楽だけでなく、映画・ドラマやお笑いなど多方面で活躍。著書に「一億総ツッコミ時代」(槙田雄司名義)、「すべてのJ−POPはパクリである」。

 千葉雅也 78年生まれ。専門は哲学・表象文化論。著書に「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」「別のしかたで ツイッター哲学」。ファッション批評も手がける。

 片田珠美 61年生まれ。京都大学非常勤講師。専門は精神医学・精神分析。著書に「他人を攻撃せずにはいられない人」。17日に「プライドが高くて迷惑な人」を出版予定。
 最近、なんだか世の中が息苦しい。何か言えば揚げ足をとられ、たたかれ、ネットで炎上する。重箱の隅をつつくような言葉はスルーして、もっと自由になれないだろうか。ミュージシャン・俳優のマキタスポーツさん、哲学者の千葉雅也さん、精神科医の片田珠美さんに聞いた。

■愛なきツッコミ見極める

マキタスポーツさん(ミュージシャン・俳優)〉

 今は、「一億総ツッコミ時代」だと考えています。ちょっと人と違うことを言うと、ネットやSNSで叩(たた)かれる。面と向かっては言えないような激しい言葉もぶつけられる。あらゆる人が上から目線で、お笑いでいう「ツッコミ」を入れる社会になってしまった。

 まったく知らない相手や問題にもツッコミを入れてしまう。「イスラム国」なんか、普通の日本人はほとんど知らないけれど、つまらない正論を展開する人が一定数いるんです。ドヤ顔で語って、自分がいい気分になるだけ。「しょんべん正論」と呼んでいるんですが、かけておしまいみたいな感じですね。

 ツッコミの人はすぐ「おまえの立場はどっちなんだ」「白か黒かはっきりさせろ」という。世の中はほとんどはグレーで、白か黒かなんて決められない。でも、冷静に思考するのはめんどくさい。白か黒かの正論に逃げたほうが楽なんでしょう。

 僕が「ニコニコ生放送」とかに出ていると、ユーザーがいろいろなツッコミを入れてくる。全部相手にはできないから、スルーとボケをうまく使い分けるんです。本当にむかつくコメントや単なる罵詈雑言(ばりぞうごん)は、相手をしてもしかたがないので、スルーする。ただ、スルーばかりだとかえって拍車がかかる。

 僕がからむことで面白くなりそうだと思えるコメントがあれば、ボケで対応する。わざとやられてみたりすると、喜ぶんですね。それを繰り返していくと、いわば魂が浄化されて、悪いコメントがなくなっていく。

 ボケやスルーを身につけるには、まず「自分は大したものじゃない」と自覚することです。正論を言う人というのは、自分こそ正義だと思っているから、叩かれると逆ギレする。正論に正論で返そうとするんです。でも、自分の正しさなんて危ういとわかっていれば、ボケたりスルーしたりできる。他人を許せるようになるんですね。

 本来のツッコミというのは、ボケを許すものなんです。相手に対する愛や思いやりがないとツッコミとボケは成立しない。ただ、いまあふれているツッコミには愛がない。愛のあるツッコミならボケで返せますが、他罰的なヘイトのツッコミはスルーするしかない。

 いまは、知らなくてはいけない情報が多すぎるんじゃないですか。あらゆることをツッコミの対象にしようとするから、何でも知ってるふりをしなくてはいけない。でも、別にすべてを知らなくてもいいんじゃないか。あえて情報をスルーして、視野を狭める。知らないことを無理に語ったりせず、自分が責任を持てる、分相応のコミュニケーションをしていく。一億総ツッコミ時代を生きていくためには、必要のない情報をスルーしていく力も必要だと思います。(聞き手・尾沢智史)

■つながり過ぎない連帯を

〈千葉雅也さん(哲学者・立命館大准教授)〉

 ITで加速する情報社会は、誰かとつながるためのサービスにあふれています。僕もツイッターをやっていますが、ついアンテナを伸ばしすぎ、ささいなコミュニケーションまで情報収集に追われる。今、そうした「接続過剰からの切断」が必要だと身をもって感じています。

 「接続」も「切断」も、フランスの哲学者ドゥルーズが使った言葉です。それらを援用して問いを立てている僕の関心の核は、この社会や政治と、一体どんな距離で、どんなしかたで関わればいいのかにあります。

 資本主義は、過剰に向かって際限なく駆動するシステムです。でも資源・環境問題をみれば、有限であることは明らか。どこかで、成長神話にストップをかけなければならない。

 その点で、資本主義の論理と関わる原発の存立の見直しを求めたデモなど、政治的抗議の声を上げる最近の動きに、共感を覚えます。ただ、闘い方には疑問もある。社会には多くの難問があってそれらは関連していますが、一挙に批判を並べ立ててしまうと、「批判ばかりする人たち」という悪印象を与えることになりかねないでしょう。

 僕としては、あくまで個人に立脚して社会に問いを投げかけたいと思っています。一人が行動できる範囲は限られているのだから、動き過ぎてはいけない。他の人との連携も大切でしょう。でも、そこでつながり過ぎてもいけない。権力批判するあなたを認めるけど100%合流はしないよ、僕はたまにしか声を上げないから――そんなふうに互いの違いを認め、部分的にスルーできるくらいの関係の多元性が必要だと思います。

 一方で気になっているのは、一人ひとり無限の可能性があるかのような教育で夢をふりまきながら、実は苛烈(かれつ)な競争が強まる日本社会の生きづらさです。ちょうど大学で、様々な障害をもった人たちと接しています。工夫してやりとりをしても、互いの気にする点がずれていることもある。でも、互いにそれぞれのこだわりがあるわけです。

 そういう個性だからねと、ポジティブに認めようと思えば、むしろやりとりの細部にまで反応していなくていい場合もある。協調するがゆえに、ささいなことはそっとしておくという無関心の工夫もある。これもまた、つながり過ぎない連帯のあり方と思うんですね。

 つながり過ぎを切断しようという問題提起は、ある意味、せつない。バブル崩壊後に大学入学した僕ら30代から下にとっては、特に腑(ふ)に落ちる気がします。「人生は、あきらめからあきらめの旅」。最近、僕はそう書いたのですが、ネガティブな意味だけでは必ずしもないんですね。別のやりかたで多様な解答がある。それを見つけるのが幸せという直感があるのです。(聞き手・藤生京子)

■攻撃かわす逃げ場作れる

〈片田珠美さん(精神科医)〉

 言葉の攻撃に疲れ果て、心身に不調をきたす患者さんが増えています。診察していて感じるのは、ここまで激しく他人を攻撃し、破壊しようとする人が世の中にはこんなにいるのかということです。患者さんの側の弱さでは片付けられない。社会の異様な風潮を感じますね。

 攻撃的な人には五つのタイプがあります。たとえば、会社の会議で同僚の提案に徹底的に難癖をつけ、あらゆる屁(へ)理屈を持ち出して否定し、人間の尊厳までも傷つけるような人。これは「自己愛型」です。己に対する過大評価があり、とにかく自分のほうが上だ、優秀なんだと感じていたい。それを周囲にも見せつけたい。「利得型」の要素もあるかもしれません。同僚を蹴落とせば、その地位を奪い取れるという計算がある。

 ネットの世界で多いのは「羨望(せんぼう)型」です。成功して幸福そうな人が我慢ならない。だから芸能人や政治家に不祥事が発覚した途端、池に落ちた犬はたたけとばかりに徹底的にたたく。

 お店で店員を怒鳴るのは「置き換え型」です。本当は上司や妻に叱られて反論したいんだけれど、できないために八つ当たりする。「否認型」は自分にも非があるのがわかっていて、それを否定してみせるために他人を強く責めたてる。

 攻撃的な人の背景は様々ですが、一つには核家族化があります。親が満たされなかった自己愛を子どもに投影し、自己実現しようとする家庭です。大家族の時代は、祖父母もいて様々な価値観で修正されたのが、核家族では親の欲望を全部取り込んで期待を背負う。過剰な自己愛を持つ人が育っていく。

 先行きの暗い経済状況も一因です。将来に希望が持てず、貧困の足音もひたひたと聞こえる。不安や閉塞(へいそく)感が広がり、勝ち組への妬(ねた)みはものすごい。そこに、匿名で攻撃できるネットという手段が出現した。

 学歴社会信仰もあります。「いい大学に入れば、いい会社に行けて幸せになれる」という社会的上昇の夢は、いまや幻想に過ぎません。階層は固定化し、上昇は難しくなった。それなのに昔の夢がまだ残っているから不満がたまるのです。

 本質的には子どものいじめと同じですが、逃げ場のない子どもと違って大人は逃げ場を作ることができる。相手にせず、スルーすればいいのです。

 いけないのは攻撃を真に受けてしまうこと。相手は巧妙ですから、「お前のためなんだ」といって罪悪感まで抱かせる。自殺に追い込まれかねません。

 まずはよく観察する。自己愛か、羨望か、利得か。相手を見極めたうえで、できる限り接触を避ける。それでも攻撃が続くようなら反撃する。できればユーモアの力も借りて、黙らせるのです。(聞き手・萩一晶) 
    −−「耕論:スルーする力って? 『もっと自由になる』方策」、『朝日新聞』2014年10月07日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/ASG9Q5QP9G9QUPQJ00B.html




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覚え書:「耕論:ヘイトスピーチへの処方箋 樋口直人さん、師岡康子さん、阪口正二郎さん」、『朝日新聞』2014年10月02日(木)付。


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耕論
ヘイトスピーチへの処方箋 樋口直人さん、師岡康子さん、阪口正二郎さん
2014年10月2日

 全国に広がるヘイトスピーチ(憎悪表現)。今夏、国連の二つの機関が相次いで日本政府に対処を求めた。だが、法規制には慎重論もある。どんな処方箋(せん)が必要なのか。

 ■極右を保守から切り離せ 樋口直人さん(在特会を調査した社会学者)

 社会でうまくいかず、鬱積(うっせき)した感情のはけ口を求めて差別デモに加わる――。街頭でヘイトスピーチを垂れ流す差別デモの参加者について、こんな解釈を何度もメディアで見聞きしました。実は私も、あれは不満や不安が産み落とした排外主義運動だと思い込んでいた。

 ところが、現場に行くとどうも雰囲気が違う。2011年から1年半かけ、在日特権を許さない市民の会在特会)の活動家ら34人に話を聞いて、ようやく実像が見えてきました。通説の多くは根拠の乏しい神話であることがわかったのです。

 学歴では大卒(在学中・中退を含む)が24人。京大卒や東工大卒のエンジニアもいました。雇用形態も、正規が30人に対して非正規は2人。普通の会社員に多く出会いました。職業をみるとホワイトカラーが22人、ブルーカラーは6人でした。

 「移民が増えると摩擦も増え、排外的な運動が広がる」というのは欧州の定説ですが、日本の場合はこれも違った。摩擦がなかったどころか、日常生活で外国人との接点すら持っていない人がほとんどでした。実は在日コリアンの実情をほとんど知らない人々が起こした運動だったのです。

 では、なぜ在日が標的になるのか。日本に最近やってきた外国人ではなく、長く日本で暮らし、地位も確立した「モデル・マイノリティー」たる在日が攻撃されるなんて、欧州の極右運動の常識では理解できません。ここに日本の排外主義の特質があります。

 発端は00年代前半、韓国や中国、北朝鮮への憎悪に火がつきました。日韓W杯や反日デモ拉致問題がきっかけです。その矛先が、国内の在日に向けられた。歴史修正主義に出会ってゆがんだ目には、在日という存在は「負の遺産」で敵だと映った。東アジアの近隣諸国との関係悪化が端緒だったのです。

 憎悪をあおる舞台装置がインターネットでした。韓国発のネット情報をゆがめて伝えたり、「在日特権」なる完全なデマをばらまいたり。反差別法がある欧州ならすぐに監視団体が削除させるような妄想が、何の規制もないまま拡散していった。

 その情報源になったのが右派論壇です。「嫌中憎韓」は右派月刊誌レベルでは00年代前半に始まっていた。つまり右派論壇が垂れ流した排外的な言説を、ネットが借りてきてデフォルメし広げた。さらに00年代後半に登場したネット動画が、憎悪を行動に転換させた。憎しみはヘイトスピーチという形で街頭に飛び出していったのです。

 ひどい言葉をまき散らすヘイトスピーチですが、これを「病的な人々の病的な運動」と見ていては事の本質を見誤ります。意外に普通の市民が、意外に普通の回路をへて全国各地で大勢集まった。それなりの筋道のある合理的な行動なのです。ここに、この極右市民運動の新しさと怖さがあります。

 ヘイトスピーチの法規制は、実は保守が極右との関係を整理できるかどうか、という問題だと考えています。極右は常に、ナショナリズムにおいて保守の右から強硬な主張をする。その境目に「防疫線」を引き、正常な政治と市民生活から極右を切り離す必要があります。

 さもなければ、保守はより右に引っ張られる。国際社会からも、安倍政権はやっぱり極右なのかと見られます。それではまともに国を運転していけません。きちんと損得勘定できるリアリストが、政権内部で頑張れるかどうかですね。

 欧州なら極右政党と呼ばれるべき政党も、すでに次々と日本で誕生しています。まともな保守政権でいるためには、対象を限定したうえでヘイトスピーチの法規制に踏み込むべきです。それで規制が弱くなったとしても、極右を切る、という意志を政権が示す政治的な効果が大きいのです。(聞き手・萩一晶)

     *

 ひぐちなおと 69年生まれ。05年から徳島大学総合科学部准教授。日系ブラジル人や移民の問題を研究。著書に「日本型排外主義」、共著に「顔の見えない定住化」など。

 ■放っておけば暴力に発展 師岡康子さん(弁護士)

 ヘイトスピーチをする側は、相手は同じ人間ではない、汚い存在だと攻撃します。それも民族や国籍という、変えることができない、あるいは難しい属性を突いて口汚く侮辱する。ゴキブリやうじ虫にたとえる。差別デモを見たら、ひどいと感じる人がほとんどでしょう。

 ただ、法律で規制するとなると異論が出る。「言論には言論で対抗すべきだ」とか「自由な批判を萎縮させる」とか。ヘイトスピーチがもたらす害悪がいかに深刻か、十分に伝わっていないんだなと思いますね。

 たとえば京都朝鮮学校の事件では、街頭宣伝を聞いたショックから今でも1人で留守番できない子がいます。苦痛や恐怖、絶望をもたらす、「魂の殺人」とも呼ぶべき行為なのです。近隣との関係も破壊された学校は移転を余儀なくされました。

 こんな差別はすぐに止める、というのが国際人権法の考え方です。放っておくと社会に差別が広がり、物理的な暴力につながりますから。確信を持って差別している人たちは、法律で強制的に止めるしかない。

 1965年に人種差別撤廃条約ができたのも、ネオナチの運動が欧州で広がり、またユダヤ人虐殺に発展しかねないという危機感からでした。翌年には自由権規約ができ、いずれもヘイトスピーチを禁じています。日本は両方とも加盟している。

 にもかかわらず、ヘイトスピーチを「違法」として規制する義務を政府は規約の批准から35年もサボってきた。新法で規制するほどの差別はない、との主張が理由の一つです。実態調査をして具体的な根拠を示して言うのなら、まだわかりますよ。でも、それすらしていない。

 それは戦後、この国自らが在日コリアンを差別し、民間の差別も放置してきたからです。その責任が問われるから、現実から目をそむけてきた。

 定義があいまいなまま法規制に走れば、権力がこれを乱用して表現の自由を危うくしかねない、という心配は私もあります。ヘイトスピーチ規制の名の下に、政府批判を弾圧した例は海外で実際ありますから。

 その危険を避けるには、まずは土台となる差別禁止法をつくることです。今回の国連勧告でも、そう求められています。

 日本社会には就職や入居など多くの場面で外国人への差別がある。特に在日への差別は、植民地支配への反省が戦後、十分になされなかったことが根底にあります。まず差別を違法とする差別禁止法をつくり、その中にヘイトスピーチ規制を位置づける。規制の対象は明確に限定する。権力が乱用できない仕組みを工夫すればいいのです。

 残念ながら時間はかかるでしょう。しかし今の危うい政治状況を考えると、この正攻法で進むしか道はない。そう考えています。(聞き手・萩一晶)

     *

 もろおかやすこ 92〜07年、東京弁護士会・両性の平等に関する委員会委員。その後、米英に留学。外国人人権法連絡会運営委員。著書に「ヘイト・スピーチとは何か」。

 ■法規制、拡大や乱用懸念 阪口正二郎さん(一橋大学教授)

 「死ね」「日本から出て行け」といったヘイトスピーチはひどいものです。人種や性別、性的指向など属する集団を理由に攻撃する憎悪表現に、言論としての価値はありません。

 昨年10月、朝鮮学校周辺での差別的な言動に対し京都地裁は損害賠償を命じました。しかし、「朝鮮人」といった不特定多数に向けたヘイトスピーチについて、法的な責任を問えないのが現状です。

 目の前で起きている被害を新たな法律をつくって防げ、という主張は理解できます。

 ただ、例えば「在日韓国・朝鮮人には特権がある」という発言は文脈によっては政治的な表現となる可能性があり、法律での規制は妥当ではありません。政治的な表現の自由が守られなければ、民主社会でなくなるからです。乱暴な言葉を用い政治的表現がなされることがありますが、民主主義を守るためにある程度は社会がコストを負担する必要があります。

 日本での法規制は慎重にすべきです。取り締まるにしても対象を明確にし、なるべく限定的な内容にすべきでしょう。

 1970年代後半、ユダヤ系住民が多く住む米シカゴ郊外の村にネオナチの団体がナチスの軍服を着てデモを計画したとき、村が条例によって規制しようとしたことがあります。米自由人権協会は表現の自由に関わるとして団体への支援を決め、連邦地裁も条例が違憲という判決を下しました。米国では表現の自由に対する意識が強く、ヘイトスピーチの法規制はありません。

 一方、ナチスによるユダヤ人排斥を経験した欧州では、刑事規制があるドイツをはじめ法規制が主流です。65年に人種関係法が制定された英国では、人種に対する憎悪表現の文書や言葉の使用が規制され、86年の公共秩序法で演劇や映像の記録物など表現手法の対象を広げたほか、2006年には宗教的憎悪にも拡大されています。

 法規制が一度導入されると、対象が次々に拡大される可能性があるのです。今年8月末、自民党ヘイトスピーチの法規制を含めた防止策を検討した会合で、国会前の脱原発デモなどの規制を求める意見が出されました。9月1日に高市早苗政調会長(現総務相)は国会周辺のデモについての法的規制を否定する談話を発表しましたが、デモ規制に飛躍させようとする姿勢では信頼を置くことはできません。

 ヘイトスピーチの法規制という外科的処置が実施されたとしても、根本的な問題解決のカギは教育です。中学や高校では近現代史の授業時間が短く、朝鮮半島の歴史や日本との関係がきちんと教えられていません。問題の本質を知り、人々の意識を変えない限り差別は残ります。(聞き手 編集委員・川本裕司)

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 さかぐちしょうじろう 60年生まれ。早稲田大卒。東大社会科学研究所助手、助教授などを経て01年から現職。専攻は憲法表現の自由を中心に研究。著書に「立憲主義と民主主義」など。
    −−「耕論:ヘイトスピーチへの処方箋 樋口直人さん、師岡康子さん、阪口正二郎さん」、『朝日新聞』2014年10月02日(木)付。

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http://digital.asahi.com/articles/DA3S11380563.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11380563


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書評:岩下明裕編『領土という病 国境ナショナリズムへの処方箋』北海道大学出版会、2014年。

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岩下明裕編『領土という病 国境ナショナリズムへの処方箋』北海道大学出版会、読了。領土問題は全て政治的に「構築(construct)」された産物であり、ひとは常に「領土の罠」に穽っている。本書はボーダースタディーズの立場から「領土という病」の治療を目的に編まれた挑戦的な試みだ。

領土ほど自明のように映りながらその実空虚なものは他にはない。「領土が大事」「領土は国家の礎」という言辞に疑問を抱かないことが「領土という病」の徴候だ。本書はシンポジウムや数々の論考・調査から「領土」や「主権」という言葉の呪いを解きほぐす。

領土主権は常に権力の源泉だが、その現実は常に流動的である。「我が固有の」という絶対性など自明ではない。主権は領土から分離しても実効性をもちうるし、主権そのものも分割しうる。先ずは、領土の構築性というイデオロギーを自覚することがスタートになろう。

本書は国境地帯・領土問題係争地帯での現実を掬い上げたボーダー・ジャーナリズムの報告も多数収録。竹島が韓国領となった場合、漁業利益は日本に有利になるし、現実に竹島近海「のみ」に依存する就労者自体が稀少とは驚いた。

日本の領土問題といえば、常に北方領土竹島尖閣の3つが指摘されるが、沖縄こそ「日本最大の領土問題」とも指摘する。主権の分割した状態は未だ継続中。本書はアカデミズムとジャーナリズムの驚くべき協働だ。虚偽の常識をリセットしてくれる好著。

ああ、そうそう、編者の岩下さんは、中公新書で『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』を2005年に刊行した折り、産経新聞社から「平成の国賊」と罵られたそうな。話はずれますが、所謂「メディア」が「活字」で「平成の国賊」などとレッテル貼りするとはこれいかに、ですわな。





岩下明裕編著『領土という病 ― 国境ナショナリズムへの処方箋』刊行される | 境界研究ユニット(UBRJ) - 北海道大学スラブ研究センター


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